そのお誘い、断ってもいいですか

 

ご連絡ありがとうございます。私は相変わらず隔月で帰省しており、その月も帰省の他に旅行の予定があり都合がつきません。


帰省の合間に推し活、趣味活をし、月に数日しか働いてない怠け者の私は、バリバリ働く皆に合わせる顔もなく、今後の同窓会は遠慮するかもしれません笑


でも、いつでも皆の健康と幸せを願っています♪

 

*****

 

あなたから突然届いたプチ同窓会のお知らせ。私は考えに考えて先の文言と近況を報告した。私の心配をよそにあなたから返ってきたのは、了解スタンプと近況には一言も触れない短い挨拶。

 

いつからだろう。あなたに会うのがしんどくなったのは。あなたが嫌いなわけじゃない。心底尊敬してる。あなたはいつだって清く正しく美しいし、真面目だ。私みたいにズルや間違ったことはしない。

 

そんなあなたに会うと、私はいつも自己嫌悪に陥ってしまう。たくさん話して笑って楽しい時間を過ごしたはずなのに、あなたと会った後の私は、自分が本当にダメ人間に思えてしまう。でも、家事育児をしながら働き続けてきたあなに比べたら、私がダメダメなのは事実なんだ。

 

だけどね、あのとき、あの言葉を聞いて何となくわかったよ。モヤモヤする理由が。だからもう自分の気持ちに正直になるね。気が進まない誘いは断ることにする。50代も終わりに近づき、自分に残された時間が限りあることを実感するから、嫌なことに割いている時間など勿体ない。

 

*****

 

夫が高校の同窓会から戻ってきた。私も同級生だけど、帰省したばかりだからと欠席した。


帰ってきた夫の顔を見ただけで、何も聞かずともその会がいかに楽しいものだったのかわかったよ。集合写真を見ながら二人で笑った。誰かわからないほど面影がなくなった人や、40年経っても全く変わらない人もいて、とにかく面白い。昔の写真を出してきて見比べては、自分たちのことは棚に上げまくって、酒のツマミにして大いに盛り上がった。

 

還暦目前の同級生たちは、大企業の役職や会社経営者、校長、海外在住者などなど、まだまだ現役で活躍中。でも、それはなんとなく夫が耳にした情報で、実際に話したのはバカばかりやっていた昔の思い出話。


大学卒業後、どんな仕事をして、どんな人生を送ってきたのか。どんな人と結婚して、子どもは何人いるのか。その子どもはどこの大学へ行き、どんな職業に就いたのか。そもそもそんな事など全く興味なんかないし、誰ともそんな話にはならなかったと。

 

そうだよね。高校卒業後から今日までの40年間、何事もなく平穏だった人なんていないだろう。皆、それぞれの場所で、いろんな理不尽なことを経験して、様々な困難をくぐり抜けてきての今がある。

 

とにかく、40年もの長い年月を無事に生きてきて、元気な姿で再会できたのが凄いことだ。

 

*****

 

そうそう、同窓会と言えば、私が忘れられない、あなたが言った、あのときの言葉。50歳になる年に集まった同窓会でのあなたの言葉だよ。

 

卒業後の人生の殆どを専業主婦として生きてきた私が、素晴らしい経歴や肩書きを持つ仲間たちと比べて劣等感を覚えるのは、仕方ないこと。だって、例え私が人生をやり直したとしても到底出来なかったことを彼女たちはやってきたのだから。

 

もう皆には敬意しかない。どれだけの苦しいことや辛いこと、悔しいことを乗り越えてきたのだろうか。泣いたり怒ったり色んなことに耐えながら働いてきたのだと思う。

 

同窓会って、そんな今日までを乗り越えて生きてきたことを褒めて喜びあうだけじゃダメなのかな。昔の懐かしすぎる話で笑うだけじゃだめなのかな。

 

勿論、あなたに悪気なんてさらさらないことはわかってるよ。きっと大真面目に考えて、これだけは絶対に外せないと思ったんだね。

 

でも、その場には皆と一緒に卒業できず、同じ職に就けなかった人もいたよ。まぁ、そもそも立派な経歴を作れなかった私が、のこのこと同窓会に出るべきじゃなかったんだと、今は思ってる。

 

だから、今回はそのお誘いお断りします。だって、あれは結構キツかったよー。

 

 

 

 

「はい、それでは順番に卒業後から現在までの経歴を言いましょう!」

 

 

 

f:id:tsukiko_season2:20240408185531j:image

 

 

 

面接かよ!

 

 

3月8日

 

f:id:tsukiko_season2:20240308181654j:image

 

 

 

入院中の母と面会した日は、前日とは打って変わって猛吹雪だった。病棟からなかなか降りてこない母を待つ間、窓の外で横殴りに降る雪を見ながら私は何度もため息をついた。

 

昨年末には私と並んでスタスタと歩いていた母は、ナースに車椅子を押されて現れた。

 

母は私を見るなり、今にも泣きそうな顔になった。そして何か言いたげに口を動かした。私の名前はわからないけど、よく知っている近しいひとという認識はあるみたいで、だんだんと笑顔になっていった。

 

入所していた施設での徘徊や不穏を抑えるため使われていた薬の影響だろうか、母は歩くことも自分で食事を摂ることもできなくなっていた。

 

このままいくと直ぐに誤嚥性肺炎になってしまうと思った。歩くことも、話すことも、とても大切なことなのに、施設で生活するにはそれすらも難しいみたいだ。

 

四年前、妹と私で、母を連れて女三人での小旅行を計画してた。ちょっと高級な旅館でゆっくり温泉に入り、美味しい食事とお酒を楽しむ予定だった。初の母娘旅行。だけど、旅行はコロナのせいで決行されることはなかった。

 

 

 

もう少し早くに旅行に行けばよかった。

もっと母の話を聴いてあげればよかった。

もっともっともっと会いに行けばよかった。

 

 

 

私の名前はわからなくても、自分の名前と生年月日だけはわかっていた母が、それすらも答えられなくなっている。

 

 

今日はあなたが生まれた日。本当は子どもたちや孫たちが集まって盛大にお祝いしたかったね。どこか暖かなところに旅行したかったね。

 

 

でも、生きていてくれてありがとうね、お母さん。

今日は3月8日だよ。

 

 

 

 

 

80歳おめでとう

ピンクのスーツを着た青年と薔薇色の人生

コロナ禍の反動だろうか。私は、今年に入ってからLIVEに舞台にと、せっせと足を運んでる。松任谷由実デビュー50周年LIVEから始まり、お久しブリリアントの及川光博ワンマンショー。一度は観てみたい!と切に願っていた井上芳雄主演ミュージカル「ムーランルージュ」。今月は市村正親主演ミュージカル「生きる」。11月はユーミン再び。一年の締め括りは永ちゃん。そうそう、大好きなプロ野球の球場観戦も再開した。勿論、話題のエスコンにも行った。







コロナ感染拡大中は、もう生LIVEに行くことは無いなと思った。だから今、こんな日常が戻ったことは本当に喜ばしい。



ところで、数年ぶりに訪れた武道館でしみじみ感じたのは、来場者の年齢の高さだ。周りを見回すと、私たち夫婦みたいな熟年ばかりじゃないか。そりゃそうだよ。だって、演者が熟年なんだもの。私たちだけじゃなく、ステージ側の人たちも同じく年齢を重ねてる。時間は何人にも平等に流れてるってこと。





先月58歳になったばかりの吉川晃司。ピンク色のスーツでステージを走り回って歌う姿を初めて生で観たのは、私も吉川晃司も20代だった35年前のこと。来年はデビュー40周年。サポートメンバーもそれぞれ年齢を重ね、今や50代60代だ。後藤次利氏は何と71歳とな。



そして、私がその日最も楽しみにしていたのが、コーラスの大黒摩季さん。摩季ネェが来るってことは、あの曲を生で聴けるってことだから。




HEART∞BREAKER
ー作詞 大黒摩季・作曲 吉川晃司ー


吉川が歌う


君は幸せか?
夢はもう見つけられたか?
そこに愛はあるか?



摩季ネェが歌う


“いつか”も“奇跡”も
待っていられないなら 今を
変えるしかないサ


    

最高に盛り上がったのは言うまでもなく。今年54歳になる摩季ネェと58歳になった吉川晃司。何てパワフルでエネルギッシュな50代なんだ。寧ろ、若い頃よりもパワーが増しているように思う。




若い人たちには、その存在だけでパワーがある。そんな若者から元気が貰えるのは当たり前のこと。だけど、酸いも甘いも噛み分けた人生のベテランたちには、若者にはない力がある。豊かな人生経験によって培った力。そう、生きる力が。生きてきた年数分の。




ステージ真横のサイドバック席からはアーティストの細かい動きまでがよく見える。華奢だった身体は、胸板が厚く逞しくなり、真っ黒だった髪は、そのほとんどが銀色となった。35年前、ピンク色のスーツを着て、軽やかに踊り、歌っていた青年は今、ステージ上の椅子にどっしりと腰をおろし、余裕の微笑みを見せている。



人生折り返しなんて言いますが、折り返しは無いですから。前に向かって行くしかないですから。
        ー吉川晃司ー





そう言い切ったあと、あの懐かしい曲を静かに歌い始めた。当初、この曲は演らない予定だったのを、「私の青春の曲だから!」と、摩季ネェに熱望され歌うことを決めたそうだ。




曲の途中、私は目を閉じてみた。あぁ…この伸びのある艶やかな声。あの頃と全然変わってない。あの日、LIVEで聴いた声だ。でも、35年前のLIVEで私の隣にいた友だちは、もうこの世には…いない。




そう考えたら、私が今日、ここにいることだって奇跡みたいなものだ。明日のことなんてわからない。吉川が言うように、前に向かってすすむしかない。人生を薔薇色にするために。




ゆっくり目を開けると、そこにはあの肩幅の広い青年がいた。














LA VIE EN ROSE

ー前略 失礼いたしますー



びっくりした?45年ぶりの手紙だもんね。互いの近況どころか、今では連絡先すら知らないのに、どうして手紙なんか書いたのかって?



それはね…



私ね、隔月で実家に帰ってるの。もう誰も住んでいない家に。そう、あの家に。その実家滞在中に少しずつモノを処分しているの。で、今回の帰省中にね、手紙の束を見つけたの。



私って、転校生だったでしょ。だから、前の学校の友だちからの手紙とか、年賀状をたくさん貰ってて、それを大事に取っていたのね。他には転校していった友だちからの手紙とか、雑誌の文通相手募集コーナーで知り合った子達からの手紙も残ってた。



その中にね、たった一通なんだけど、貴女からの手紙があったの。でもね…私は貴女からの手紙を読んだ記憶がないの。返事を書いた記憶も。とっても不思議なんだけど、全然覚えてないの。貴女以外の友だちからの手紙は、当時の情景までもハッキリと思い出せるのに。



なぜか貴女からの手紙だけ、何も思い出すことができないの。その手紙は、一度読んだら絶対に忘れることはできないはずなのに。当時の貴女は、私よりもずっと大人だったみたい。



なぜなら、もうすぐ中2になる13歳の貴女からの手紙には、「人生とは。生きるとは。」と言う、貴女なりの人生哲学がびっちりと書かれていたのだから。その頃の私はまだ幼くて、貴女からの手紙にどう返事を書いたら良いのかわからなかったんだと思う。



あれから45年。もうじき58歳になる私は、貴女からの手紙を何度も何度も読み返してるの。貴女は、いつも何かに苛立っていて、ちょっとやんちゃで、そして大人びていたよね。怒るときは顔を真っ赤にしていたね。いつもいつも、ひとり何かを深く考えてた。きっと誰よりも「生きる」ことについて、真剣に考えていたんだね。



手紙の中の、とりわけ大きな文字で書かれた貴女の言葉、なんだかやけに刺さったよ。長い年月を経て、私の前に現れた貴女からの手紙。それはたぶん、遠いどこかにいる貴女からの私へのメッセージ。




だから「今」を精一杯頑張ろう!




返事、遅くなってごめんね。
手紙、ありがとう。   草々              







貴女が元気でいますように。

50歳を過ぎたので。

以前、古田敦也氏が言っていた。「50歳過ぎたら、高田純次になりたい」と。この発言を耳にした高田氏は「俺も60過ぎたら、古田敦也になりたいと思っているんだけどね」と言った。
 


随分と前のことだけど、「適当論」を読んで、高田氏がとてもバランスのとれた人だということを知った。それは精神科医の和田先生が太鼓判を押すほどだ。



一番大事なことはバランスだと高田氏も言う。テキトー男とか適当過ぎとか言われるけど、適当という言葉には、程よいことと言う意味があり、不適当や不適切の対義語だ。



そんなテキトー高田純次氏の好きな言葉



「禍福は糾える縄の如し」







親のことや実家の管理などのため、隔月の帰省生活を始めて1年以上が経過した。全然大変じゃないと言えば嘘になる。だけど帰省には楽しいこともある。美味しいものも食べられるし、たまには友だちに会うこともできる。
 


人生、いいこともあれば悪いこともある。いいことも悪いことも、それはより合わせた縄のように交互にやってくる。いいことの次には悪いこと、悪いことの次にはいいこと、ってな感じに。きっと、人生はその繰り返し。






幸福と不幸は交互にやってくる。だから生きているということがあれば、死んじゃうこともあるよね。
   by高田純次





毎日寒い。でも、この寒さを越えたら次は暖かな春がやってくる。




てな訳で、50歳をとうに過ぎたので、わたしも高田純次のように、











適当に生きています。

実際の悲劇に基づく寓話ーSPENCERー彼女を本当に"殺した"のは誰?ーTHE PRINCESー没後25年に思い出した世にも恐ろしい法則

この地球には、世にも恐ろしい法則、すなわち「正負の法則」があります。
美輪明宏


・・・


1997年のある夏の日。この日のことは、25年経った今もはっきりと覚えている。家族で遊びに出かけた帰りの車中、私は思わず悲鳴をあげた。ラジオから流れてきた遠い異国のNEWS。ダイアナ妃が交通事故に遭い、愛する二人の子どもを残して亡くなった。私は、遊び疲れて眠る息子の寝顔を見ながら、呆然とした。



名門貴族スペンサー伯爵家の令嬢ダイアナ。チャールズ皇太子と結婚した時は、20歳という若さ。エリザベス女王の半生を描いたNetflixドラマ『ザ・クラウン』シリーズ4では、チャールズ皇太子とダイアナ妃の出会いから波乱に満ちた結婚生活などが描かれている。



当時、姉と交際していたチャールズ皇太子と初めて会った時のダイアナは、まだ16歳。一回りも年齢が違うチャールズ皇太子に、ダイアナはどんな風に映ったのだろう。


とても陽気で楽しく、魅力的な16歳の女の子だと思ったことを覚えています。ーチャールズ皇太子


 


2人の離婚に焦点が当てられると言われているシーズン5は11/9配信開始!



若くて可愛くて美しいダイアナ皇太子妃は、そのあまりの美しさ故、結婚前から常に世界の注目を浴びることとなった。そんな彼女の願いはただひとつ。自身の両親が離婚していたこともあり、心から幸せな結婚生活を願っていたという。


隣に皇太子が居てくれれば良い。良妻賢母になりたい。


はにかみながら微笑むダイアナ皇太子妃は、何処へ行っても皇太子の存在が霞むほど注目された。いや、その存在など、はなから無かったかのように、人々はダイアナ皇太子妃に熱狂した。世界中でダイアナ・フィーバーを巻き起こした。



ところが、結婚当初からの夫の裏切りにより、結婚生活は程なく破綻した。王室の古いしきたりと抑圧。度が過ぎる執拗なパパラッチ。トップレディに相談しても、苦悩の原因となった張本人と対峙しても、夫は何も変わらなかった。孤独と苦悩は募るばかり。ダイアナ皇太子妃はどんどん追い詰められ、自分を追い込み、そして壊れていった。



SPENCER

YouTubeより

 

夫と息子達を愛し、そして愛されたいと願うのは、ごく当たり前のことだ。けれども、救いの時間は子ども達と戯れ合っている時しか無かったなんて。「SPENCER」は、1991年のクリスマスの三日間の話だ。自分らしくある為に、ダイアナ皇太子妃はある決意をする。


わたしの仕事はあなた達のママよ。



マスコミが殺した?

YouTubeより



ダイアナ妃没後25年を迎えた2022年、もう一つの映画「プリンセス・ダイアナ」も上映中だ。これは、ナレーションやテロップによる解説や分析が全くないアーカイブ映像によるドキュメント映画だった。
 


婚約直前から、国葬までを描いた、むき出しの映像が淡々と続く。「彼女を本当に"殺した"のは、誰か?」その答えを、私は見つけることができたのか。


・・・


ダイアナ妃の死については陰謀説まであるけれど、この映画を観終わった時、私はあることを思い出した。美輪さんが言っていたあの世にも恐ろしい法則を思い出したのだ。そして、この世の中は、芸能界も、会社も、幼稚園のPTAも、成分はみんな同じで、悪意、妬み、嫉み、僻みでできていることも。ダイアナ妃は、その法則によって亡くなってしまったのかも…。



人生楽あれば苦あり。どんな人の人生にも良いことと良くないことが起こる。私の人生も然り。毎日楽しいことばかりではないし、最近調子が良いかもと思ったらどこからともなく難題が現れる。その繰り返し。



それでも、私が今日まで無事でいられたのは、誰かに僻まれ妬まれるような美貌や才能を持たず、極々平凡な顔で生まれてきたからなのかも。美しい女性は、とかく悲運であったり、短命であったりすることが多い、という"美人薄命"なんて言葉もある。



ダイアナ妃は、世界中の人々から愛された反面、数々のボランティアやチャリティ活動に邁進していたことは正当に評価されたとは言い難いと言われている。事実、政治を変えたほどの偉大な業績よりも、悲しいかなその外見のことや、スキャンダルばかりが目立っていたように思う。



ダイアナ妃は、あまりにも聡明で、可愛くて、美しかった。そして、気さくで、優しくて、魅力的だった。だから世界中の多くの人々に愛された。実際に会った事もないのに、私もダイアナ妃が好きだった。



魅力はその美貌だけではない。気さくでユーモアがある。人々と握手することで触れ合いたいからとエイズ患者と素手で握手をしたり、人前で子ども達とハグしたり、なんとも愛に溢れている人なんだろう。




ダイアナ妃を好きな人たちは、ダイアナ妃をもっと見たい、ダイアナ妃の全てを知りたいと思った。それに応えるべくマスコミは追いかけた。パパラッチも追いかけた。追いかけて、追いかけて、追いかけて、追いかけた結果・・・




もし、もしも。




もし、ダイアナ妃があんなに美しくなかったら

命を落とすことは・・・・・

そう思わずにいられない位、貴女は美しかった





美しい人たちはそれだけ負をどこかで払っている。華やかな表舞台があれば、地味で厳しい裏舞台があり、大きな成功を手にした人は、ほとんどが相応の犠牲を払っている。光があるところに影がある。それが “正負の法則″ というものです。
美輪明宏




今、存命だったら61歳。素敵に年齢を重ねたダイアナは、どんなに美しかっただろう。その姿を見ることは叶わなかったけれど、貴女の生き様はこれから先も多くの人に勇気と希望を与え続けるはず。




貴女がそう願ったように、ダイアナ妃は今も私の心のプリンセス。









わたしは人々の心の中の王妃でありたいと思っていますが、この国の王妃であるとは考えていません

シンデレラみたいに




毎日、意地悪な継母と姉達に虐められていたシンデレラは、ボロボロになって働いていました。舞踏会に着ていくドレスも無く泣いていると、魔法使いが現れました。魔法使いは、シンデレラがいつも頑張っているのを見ていたのです。魔法使いの魔法で綺麗なドレスを着て舞踏会へと出かけたシンデレラは王子様と出会いました。でも、魔法がとける前に、シンデレラは王子様の前から去ってしまいます。王子様がシンデレラを見つけることが出来たのは、ガラスの靴が残っていたからです。そのガラスの靴は、シンデレラの足にしか合わない靴でした。王子様は無事にシンデレラを見つけ出し、二人は幸せに暮らしました。ー月子の記憶のシンデレラー



・・・


 
過重労働と二人の上司によるパワハラでダウンした青年は、縁切榎の力もあってか悪い縁を切ることができました。その後、青年はひとりの靴のスペシャリストに出逢いました。青年は、その 靴のスペシャリストに白いスニーカーを履いてみるよう言われました。




どうぞ、お履きになってください。買わなくていいんです。ぜひ、この靴の履き心地をお試しになって欲しいのです。そして、店内を歩いてみて感想をお聞かせください。





青年は靴のスペシャリストが見守る中、白い革のスニーカーにおそるおそる足を入れました。青年の足は、まるで靴に吸い込まれていくようでした。両足を入れて立ち上がったその瞬間、青年の顔がぱあっと明るくなりました。



元気を失くして少し丸くなっていた背中はスッと伸び、頭がぐっと天井に引っ張られたみたいになりました。その靴は、青年がそれまで履いたことがない履き心地だったのです。それもそのはずです。青年は、かつてそんなに高い靴を履いたことがありませんでした。



身体は疲れ切っていて、元気が無くなっていた青年は、久しぶりに気持ちが明るくなりました。この靴を履けば、なんだか何でも出来そうな気がしました。この靴を履いたら、どこへだって行けそうな気がしました。 



値段を見ると、その日青年が履いていた「」にみえるサイドのマークが有名な「PREMIATA」の靴が何足も買える値段でした。青年は来る日も来る日も考えました。本当に欲しい靴なのか、本当に自分に必要な靴なのかを考えました。何日か経ったある日のこと。青年は、この靴はどうしても自分に必要だと思ったのです。



その靴はとても高い靴でした。青年には入社してから貯めた貯金もありましたが、最後になるかもしれないボーナスから払うことにしました。パワハラに耐えた自分に、頑張ってきた自分に、この靴をプレゼントしようと思ったのです。



初めてその白い靴に足を入れた時、靴のスペシャリストは、青年とその母親(継母ではない)に向かってこう言いました。



こんな諺を知っていますか?




青年はその諺を知りませんでしたが、継母ではない母親はその言葉を知っていました。母親は、どうやら諺との認識ではなく、ドラマのセリフとして記憶していたようです。



  



良い靴は、履き主を良い場所へと連れて行ってくれる。





さて、青年はその後、シンデレラみたいに
















幸せに暮らすことができるのでしょうか